日立グループはAIエージェントで何を変えたのか
日立グループは2026年4月、AIエージェントの実践成果を複数発表しました。日立ソリューションズは安全保障貿易管理へのAIエージェント適用で審査時間60%短縮を達成し、日立製作所はフィジカルAI戦略「HMAX」で熟練工の暗黙知をデータ化する3つの手法を展開しています(ITmedia, 2026)。
日立の事例が示すのは「AIエージェントの適用範囲はデジタル業務だけではない」という事実です。安全保障貿易管理という高度な規制対応業務をAIエージェントで自動化し、さらにフィジカルAI(物理世界のAI)で製造現場の暗黙知までもデータ化する。デジタルからフィジカルまでの一気通貫のAIエージェント活用は、110年の製造業の歴史を持つ日立ならではのアプローチです。
日立製作所でAI戦略をリードする吉田順氏(AI CoE HMAX & AI推進センター本部長 兼 Chief AI Transformation Officer)は「2025年のAIエージェント元年を経て、2026年はフィジカルAIの時代に入った」と断言しています(ITmedia, 2026)。
安全保障貿易管理のAIエージェント化
課題:複雑化する貿易ルールへの対応
安全保障貿易管理とは、軍事転用可能な製品や技術が安全保障リスクのある相手に渡らないよう、国の輸出規制に対応する業務です。たとえば米国によるAI半導体の対中輸出規制や、中国が日本に対して行っている軍民両用品の輸出制限など、取引先がこうした制限に合致するかどうかを確認する作業が含まれます(ITmedia, 2026)。
国際情勢の変化に伴い貿易ルールは急速に複雑化しており、規制内容が短期間で更新されるケースも増えています。従来は担当者が手動で規制リストを確認し、取引先情報と照合していましたが、精度と速度の両面で限界に達していました。
解決策:AIエージェントによる審査自動化
日立ソリューションズは、この安全保障貿易管理業務にAIエージェントを適用しました。AIエージェントが取引先情報を自動収集し、最新の規制リストと照合して審査を実行。人間の担当者は、AIエージェントのスクリーニング結果を確認し、最終判断を行うフローに変更しました(日立ソリューションズ, 2026)。
取引先情報の自動収集
AIエージェントが社内システム・外部データベースから取引先の基本情報、過去の取引履歴、関連企業情報を自動収集します。
規制リストとの自動照合
最新の輸出規制リスト(安全保障リスト、制裁対象リスト等)とAIエージェントが自動照合。該当可能性がある項目をフラグ付けします。
リスク判定の自動生成
照合結果に基づき、AIエージェントがリスク判定レポートを自動生成。リスクレベル、該当規制の詳細、推奨アクションを提示します。
人間による最終判断
担当者がAIエージェントのレポートを確認し、最終的な取引可否を判断。高リスク案件は法務部門にエスカレーションします。
この結果、審査時間は導入前から約60%短縮されました。注目すべきは、AIエージェントが最終判断を行うのではなく、情報収集・照合・レポート生成を担い、人間が判断に集中できる設計にした点です。審査品質を落とすことなく、処理速度と担当者の負担を大幅に改善しています。
フィジカルAI「HMAX」による暗黙知のデータ化
なぜ暗黙知のデータ化が急務なのか
日本の製造業は、熟練工の高齢化と退職による技術伝承の危機に直面しています。溶接の微妙な角度調整、塗装の均一性判断、設備の異音を聞き分ける能力——これらの「暗黙知」は、長年の経験で身につくものであり、マニュアル化が極めて難しい領域です。
日立製作所はAIソリューション群「HMAX」を軸に、フィジカルAI(物理世界で動作するAI)によるこの暗黙知のデータ化に取り組んでいます。吉田順氏は「ものづくりの実績はフィジカルAIと相性がいい。パートナー企業と連携しながら社会課題を解決する世界トップクラスの『AIの使い手』になることを目指している」と述べています(ITmedia, 2026)。
暗黙知データ化の3つの手法
日立が「AI博覧会 Spring 2026」で公開した3つの手法は、それぞれ異なるアプローチで暗黙知をデータに変換します。
特に注目すべきは第1の手法「AIエージェントによるインタビュー」です。熟練工本人も気づいていない暗黙知を、AIエージェントが対話を通じて引き出します。「なぜその判断をしたのか」「他の選択肢は考えなかったか」などの質問を繰り返すことで、本人が意識していない判断基準が言語化されます(ITmedia, 2026)。
デジタルからフィジカルへのAI戦略
日立のアプローチが他社と異なるのは、AIエージェントの適用範囲を「デジタル業務の効率化」にとどめず、「物理世界の知のデータ化」まで拡張している点です。
フィジカルAIによる暗黙知のデータ化は、技術的に高度であるだけでなく、組織文化的な障壁も存在します。「自分の技術がAIに置き換えられる」という熟練工の心理的抵抗は、どの企業でも発生し得る課題です。日立の事例では、AIは熟練工の技術を「奪う」のではなく「継承・増幅する」ためのツールとして位置付けることで、現場の協力を得ています。
日立が掲げる「AIの使い手」という戦略は、AI開発そのものではなく「AI活用の卓越性」で差別化する選択です。110年のものづくりの歴史で蓄積した現場の知見と、フィジカルAIの技術を組み合わせることで、AI開発競争とは異なる軸で価値を創出しています。
日本企業が学べるポイント
日立の事例から、日本企業のAIエージェント導入に3つの示唆が得られます。
第一に、規制対応業務はAIエージェントの最適な適用領域です。安全保障貿易管理のように、ルールが複雑かつ頻繁に変わる業務は、人間の担当者にとって負担が大きい一方、AIエージェントにとっては「大量の規制テキストの照合」という得意分野です。薬事規制、個人情報保護法対応、GDPR対応など、類似の業務は多くの企業に存在します。
第二に、「最終判断は人間が行う」設計がコンプライアンス上の必須条件です。日立の事例でも、AIエージェントは情報収集・照合・レポート生成に徹し、取引可否の判断は人間が行っています。特に安全保障関連では、AI判断のみで取引可否を決定することは法的リスクが高く、Human-in-the-Loopの設計が不可欠です。
第三に、フィジカルAIは製造業DXの本丸です。デジタル業務の効率化だけでは、製造業の本質的な競争力は変わりません。現場の暗黙知——熟練工が何十年もかけて培った技術——をデータ化し、次世代に継承・拡張できる仕組みこそが、日本の製造業の未来を決める鍵です。
日立が60%の審査時間削減を達成した背景には、単にAIを導入しただけでなく、既存の業務プロセスをAIエージェントに最適化して再設計した努力があります。ツールの導入だけでなくプロセスの再設計を伴う変革が、成果の差を生んでいます。
まとめ
日立グループのAIエージェント実践は、デジタル業務(貿易管理の審査時間60%短縮)からフィジカル業務(暗黙知データ化)まで、AIエージェントの適用範囲を最大限に拡張した先進事例です。「AIは道具であり、使い手の力が成果を決める」という日立の戦略は、110年の製造業の歴史に裏付けされた独自のポジショニングです。規制対応業務の自動化から着手し、将来的にフィジカルAIへの展開を見据えるステップが、日本の製造業にとって現実的なロードマップとなるでしょう。